DOLLS COLLECTION

1)はじめに

今も昔も世界のファッションの本場といえばパリです。
ノ(リモードの絶頂期であった20世紀前半。まさにパリモードの古き良き時代でした。今日のココ・シャネル、バ レンシアガ以降のパIJファッションの基礎が築かれたのもこの頃です。
また、アールヌーボーからアールデコへと芸術様式が激しく移行した時代でもあります。アールヌーボー・アールデコともに、ファッション界はもとより、建築・工業デザインなどに至るまで、広く影響を与えました。
当時のオートクチュールの巨匠たちの作品にその影響をみることができます。
こうしたことから、1904年から1940年までは加モードの絶頂期”といわれています。当時から世界を代表するファッション誌であり、常にモード界をリードしてきたヴォーグ誌。そのモードの代名詞でもあるヴォーグ誌の表紙は、その当時、パリの流行画家のイラストが飾っていました。(モードのデッサン画) ところが、ヴォーグ誌のためだけに描かれたこうしたドレスは、そのほとんどが実際に作られたこともなければ、実際に洋服として身に着けられたこともないのです。
そこで、当社はこの幻のヴォーグ・フアッションを難らせるべく、この度フランスのプロヴァンス地方にアトリエを構える「アトリエ・オディセーヌ」と業務提携を行いました。ヴォーグ誌のデッサン画をこのアトリエで実際に洋服として難らせるのです。そしてすべての洋服は、新フランスドールに着せて展示します。

2)女性は何を求めているか

この企画のターゲットは女性になりますが、それでは女性はどういった物を求めているのでしょうか?
それは、文化の香りがする、圧倒的にョーロッパ的な物です。
例えば、絵画では印象派、人形ではアンティークドール、ガラスではヴェネチアングラス・バカラクリスタルなどが挙げられ、特にフランス・イタリアの文化的な物に人気が集中しています。
また、女性は色彩への感度と識別能力に優れているため、ファッションには強い関心を寄せています。今も昔も、パリのモードは日本の女性を引きつけて止みません。ルイ・ヴィトン、エルメス、シャネルをこ覧になればお分かりでしよう。
本企画は、かの有名なファッション雑誌「ヴォーグ誌」に関する企画ということで、女性にとってはそれだけでも既に魅力的ですし、更に“かつて一度も再現されたことのないヴォーグ・フアッション”が新フランスドールと共に 見ることができるという点で、一層女性の気持ちをくすぐる内容になっています。
ョーロッパの文化的な物に女性たちにとって、本企画は、まさに女性たちの共感を呼ぶ全ての要素を含んでいます。

3)ヴォーグのフアツション画

1904年から1940年までを中心に、ヴォーグ誌におけるフアッション画の流れをこ説明したいと思います。
「ヴォーグ」は1893年にアメリ力で創刊されました。主に高級フアッション、上流社会、芸術界、社交界等のアドバイス記事が中心でした。
当時はアメリ力版・イギリス版は平均月2回(現在月1回)、フランス版はファッションの中心地パUの情報に守られて、地道に月1回というペースで発行されていました。
「ヴォーグ」の売り場は、やはりグラフィック・アートの素晴らしさにありました。かのシャルル・ポードレールはこのファッション画のテクニックについて、微妙な違いも許されない忠実な表現を要するものだ」とコメントし、ファッション画家たちを賞賛しています。単にシルエットを描くだけではなく、タフタのパリパUした肌触りや、サテンの重いしわや垂れ具合などまでも表現しなければならなかったのです。描かれた線には、その時代の精神、外観、感触、さらに物音さえも捕らえることができなければならなかったのです。つまり「ヴォーグ」のファッション画は、しばしば高度な芸術作品に匹敵するものだったのです。
「ヴォーグ」は初期の頃から、その表紙が一番重要な役割を果たしてきました。表紙担当の画家にはより入念な研究が課せられました。
特に1910年頃からの20年間の表紙絵は、華やかな装飾的な素晴らしい標本として今日まで残っています。
「ヴォーグ」がファッション画を使って大成功した時期は、1890年頃に生まれたアールヌーボーと、1920年代に盛んだったアールデコの時代と重なっています。この二つの様式の影響は、当時の「ヴォーグ」の表紙画に見てとることができます。
また、当時の有名画家たちの作品の影響を受けたことも見逃せません。
「ヴォーグ」の画家たちが「工コール・デ・ボサール」で学んだ時代のパリには、ピカソ、ブラック、モンドリアン、マチス、モディリアー二がいました。当時のパリには、詩人、画家、作曲家、デザイナー、クチュリエ(婦人服業者)などの間に交際の輪がありました。こうした中でマチスやモディリアー二などの格調高い絵が、パリのイラストレーションに影響を及ぼしたのです。そして当時パリでオートクチュールの巨匠であったポール・ポワレは自分の作品を「ヴォーグ」のイラストレーターであったポール・イリーブに描かせ宣伝することに成功しました。ここからオートクチュールとファッション画家は共通の利益を高めることになっていったのです。
「ヴォーグ」のもう一人の画家ポーター・ウッドラフはパリ・コレクションのクロッキーを描いて一躍有名になりました。
こうしたファツション画家たちの功績から、1920年代の終わりになって「ヴォーグ」は有名な国際的雑誌に急成長しました。"見る雑誌"としても非常に刺激を与えるものとなったのです。
そして1930年代はイラストの黄金時代であり「ヴォーグ」は一般の人々の共感をおおいに呼びました。「ヴォーグ」の代表的な画家の一人カール・エリックは、マチス、ドガ、口ートレックの影響を強く受けました1930年代末に「ヴォーグ」の表紙を描いたことから一躍有名になり、エリックに絵を描いてもらいたいという要望が各方面から殺到し、広告の依頼が相次ぎました。ある雑誌には「エリックはフアッションの動きを創り出して『ヴォーグ』誌上で生き続けている。女性たちに彼の描いた服を着せて、動かしている」とその人気ぶりを書いています。また、彼の死亡記事には「パリのクチュールがいちばん願望したのは、彼らのデザインした作品をエリックに描いてもらうことであった」と彼の業績を称えました。また、もう一人の代表画家クリスチャン・ベラールの作品は、パリやニユーョークの現代美術館のコレクションの中にも収められています。
彼はジャン・コクトーと共にバレ工や映画や芝居の仕事に参加したこともありました。
「ヴォーグ」誌の歴史は、ファッション画家たちの歴史と言っても過言ではありません。才能のある画家だけが「ヴォーグ」にイラストを載せることを許され、そしてその中のひとにぎりの画家たちだけが「ヴォーグ」の表紙を飾ることができたのです。

常に時代の美意識をリードしてきたヴォーグの表紙

「ヴォーグ」は1893年、アメリ力で創刊されました。主に高級フアツション、上流社会、芸術界、社交界などの情報を、すばらしいグラフィックアートを駆使して表現し、数あるファツション誌のなかでも最も重要な位置を占めてきました。
中でもフランス版は、モードの中心地パリから発信される、もっとも華やかで芸術性の高いものとして、各国のヴォーグ誌のなかでも中心的な存在でありつづけています。
かのシャルル・ボードレールは、ヴォーグの表紙ファッション画のテクニックについて「微妙な違いも許されない忠実な表現の要求に応えうるもののみが、使われている」とコメントし、その画家たちの高い芸術性と高度な技術に賞賛を送っています。ヴォーグの表紙画を描いた画家としては、当時パリ・オートクチュールの巨匠といわれたポール・ポワレのクチュール作品を描いたポール・イリーヴ、また、パリ・コレクションのクロッキーを描いて一躍有名になったポーター・ウッドラフ、またイラストレーションの黄金時代であった30年代にはマチス、ドガ、口ートレックなどの影響を受けた作風のカール・エリックなど、そうそうたる画家たちがその表現を競い、芸術性高い作品を残しました。
単にシルエットを描くだけではなく、たとえばタフタのパリパリとした肌触りやサテンの重厚なドレープなどテクスチャーまで実感できるほど、その描かれた線や色彩には、それぞれの時代の精神、美、感性、価値観、感触などがリアルに表現されています。これらのデッサンの中で彼らが描いているのは、その時代そのもの、そして女性の歴史にほかなりません。

アールヌーボーからアールデコへ-今、蘇る幻のパリ・モード

1900年から1940年といえば、パリ・モードの古きよき時代。今日のココ・シャネル、バレンシアガ以降のパリファッションの基礎が築かれた時期でもありました。芸術様式がアールヌーボーからアールデコへと、激しく変動し、ファッションの世界もそれにともない空前の活気を帯びた時期として知られます。
中世以来、一般の人々の服装にはモードというものは存在せず、単に衣服があったに過ぎませんでした。
20世紀になってはじめて、無意味な安っぽい装飾を排除した、革新的なデザインの服が登場し、以降、事件や世相がモードを作るようになったのです。
当時から現在にいたるまで常にモード界をリードしてきたヴォーグ誌では、当時のパリの一流流行画家たちを当用し、目を瞳るような美しいモードのイラストレーションが、毎号表紙を飾りました。これらの表紙のモード画はそのまま、各時代の女性の精神、美意識、生き方などを端的に語るとともに、現在のモードにも大きな影響力を持ち続けています。

4)企画の概要

1904年から1940年までに発行されたヴォーグ誌(フランス版・アメリ力版)の中から、70点のフアッション画を選びます。
70点にした理由は、観客の神経集中維持時間を考えてのことです。
これ以下ですとボリューム感がありませんし、これ以上で以上ですと飽きてくる恐れがあります。
そして、この70体の人形は以下の3つの異なる時代に分けます。 (A) 1904年一1918年
(B) 1919年一1925年
(C) 1925年~1940年
うちヴォーグの表紙絵から60体、その他のモード誌から10体、本企画はただ単にヴォーグの表紙絵を人形にすることではなくフランスのモードの歴史を再現することがコンセプトです。
従って年代によって他のモード誌に題材を求めることをしました。又、ヴォーグの表紙絵を人形にした場合、魅力的でない場合もありましたので、他誌に題材を求めた場合もありました。
1. 製作数 70体
2. 人形について
  高さ…60cm
  素材…顔・手・足は磁器製
  ボディ…シルエット(シルエットとは、いわゆるアンティーク人形等の寸胴型とは異なり、かなりスラリとしてファッション性の高いものです。ボディラインが実際の人間のボディラインと同じ物です。)
  デザイン…顔については独特で、線が細く、いわゆる1920年風です。顔つきは、アンティークドールのような“かわいいお嬢ちゃん風”とは全く異なり、ずっと端正な顔立です。手は細く、長いものです。
  布地…オリジナルの生地に近いものになります。古い布地もあれば、現代の布地もあります。この布地の収集に3年の年月を要しました。ヴォーグの表紙絵210体分の布地の収集が完了しています。後、140体製作する予定です。
  テクニック…人形への着せ方にテクニックとしては、品よく見せるということが重要です。
動きも重要です。スカートがめくれたり、スカーフが舞ったり、すそ飾りが揺れたりして、躍動感が必要です。富士ガリバー王国のシアターガI-)バーの中の貴婦人達と同じ手法になります。
  製作…フランス国アトリエ「オディセーヌ」

5)アトリエ「オディセーヌ」

フランス・プロヴァンス地方のレ・タイラドという街のムーラン・ド・サンジェニエにあり、これまで数々の人形を世に送りだしてきました。
主催者のオディール・ヴェルディエ・シャランは歴史的大画家ピカソが壁に絵を描いた部屋を持つ、アートに囲まれた家で成長しました。
1940年ビアリッツ生まれ。
1971年にインテリア雑誌『メゾンプラティック』の編集長として腕をふるい、1978年にフリーのインテリアコーディネーターとなり、ラジオ局フランスアンテールのインテリア関係の番組プロデューサー兼キャスターとなります。
また、フランス国営テレビ局アンテーヌ2でも番組を持ちました。
更にウェディングドレスのデザイナーとしても名声を得て、パリの高級住宅街16区にブティックを開きました。
その後、夫であるポール・シャランと共にグランドクレッシュ(機械じかけの人形達によるキリスト生誕物語)の製作を行ってきました。
1993年には。グランドクレッシユ「アッシジの聖フランチェスコのクレッシユ」をプロデュースしました。
そのオディールを中心に、アトリエ「オディセーヌ」には若い才能のあるアーティストや実績のあるベテランスタッフが揃っています。

作家のオディール・ヴェルディエからのメッセージ

フランスのオートクチュールは、1900年の万国博覧会で、その輝かしい歴史的勝利の一歩を踏み出しました。芸術家が自分の作品にサインするよ引こデザイナーも自分の創作した服に署名したのです。
それはモードにとって革命的な出来事でした。と言うのも、中世以降ずっと、モードなどと言うものは存在せず、単に衣服があったに過ぎなかったからです。一般庶民にとっての衣服は、制服のような単一のデザインのものでしかなく、貴族の着る服は、装飾的であるにすぎませんでした。
20世紀になって、これらのすべてが見直されたのです。無意味で安っぽい飾りを排除した、革新的なデザインの服が登場しました。以降、「事件や世相」がモードをつくるようになったのです。経済成長、産業の発展、戦争、平和、博覧会、芝居、合理的あるいは知的な生活、海水浴の習慣などのすべてが、アーティストの天才的な頭脳を刺激して、新しく、高遭で、その時々に即した芸術、風俗の移り変わりーとりわけ、すこしずつ解放されてきた女性達(その女性達が今日では、当然のように車を運転したり、飛行機の操縦をしたり、裸に近い姿で泳いでいるのです)一を語る芸術を生み出す源になったのです。
「ヴォーグ」や「フェミナ」、「リリユストレ」といった当時の一流女性誌は、マチス、クリムト、ペラール、エルテ、デュフィ、ルサージュをはじめとする画家達に、誌面に載せるデッサンを依頼しました。それらのデッサンの中で彼らが描いているのは、その時代そのものであり、当然、女性の歴史ということになります。
わたくしは、モードと社会との間にある、切っても切れない関係を描いてきたこれらの画家達のスタンスに出来るだけ近づきたいと思いました。
また、表紙や誌面を飾った画のモデルを、単なるイメージ的存在でなく、彫刻として羽ばたかせたかったのです。
制作に当たっては、ありとあらゆるテクニックを駆使しました。磁器に樹脂を混ぜたり、高価で希少価値の高いシルク(オートクチュールのためだけに少量生産しているリョン産のシルクや、オートクチュールが偶々サンプルとしてとってあって、現在では入手不可能なシルクなど)を人形に巻いたり、縫い付けたり、貼り付けたりしました。
それから、何よりも、生命と美のもとである、動きと光にスポットを当てました。