DOLLS COLLECTION

「幻のパリモード人形」制作のいきさつ

私は、1980年ごろから、フランスのファッション業界の広告、宣伝、イベントのお手伝いをするようになりました。
電通の仕事としてではなく、独自の人脈によるものでした。
きっかけは、パリのオートクチュール業界の長老であるマダムカルバンの知己を得て、東京帝国ホテルでの、マダムカルバン・パリオートクチュール・ファツションショーの全てを任された事でした。集客から何から何まで全てでした。お陰さまで、日本のエスタブ リュシュメントの中から幅広いお客様をご招待させて頂き、ショーは大成功でした。
そして、フランスのファッション界で政商として名高い、「フランキー・タク女史」に可愛がられ、バレンシアガの当時のオーナーである、上場会社で男性用化粧品を中心としたジャツク・ボガードグループのオーナー、ジャツク・コンキエ氏と交友を深め、同社の日本における交渉代理人等を務めました。
当時は、月に1回パリに出張という日程でした。
12月のある日、私のパリの顧問弁護士の橋本明氏より、「パリ市役所の市庁舎前で、素晴らし人形劇が興業しているから見学するといいですよ」と勧められました。
早速、当事通訳をお願いしていた、ジャーナリストの小椋美佳さんと見学に参りました。(小椋さんは、現在はチョコレート評論家として活躍しています。ご主人は国際的に著名 なカメラマンリュウ・ハナブサ氏です)
約15分程度のオートメカニックで動く人形劇でしたが、私はその芸術性の高さと存在感に 圧倒されました。早速、楽屋を訪ねますと、運よくその人形を制作したプロデューサーのポール・シャラン氏と夫人のオディール・ヴェルディェ氏がいました。
何とタ方の7時からタ食を共にして朝方7時まで12時間も語りあかしました。
2ケ月後の2月、イタリアのヴェニスの彼らのアトリエに今年の年末に上演する新作の人形劇の制作作業の見学に行きました。
厳寒の工場の中、朝9時からタ方5時まで2日間通い、スタッフに質問攻めをしました。
夜は、夜でホテルのロビーでポールとオディールとミーテインングを続けました。すっかり意気投合し、義兄弟の契りを結ぶまでの仲になりました。
ポールから「今まで色々な人が見学に来たけれど、朝からタ方まで、しかも2日間も見学したのは、ミノルが初めてだ」と言われました。
「日本向けに、ポール達の人形劇を制作出来るようにプロデュースするから」「是非やろう」と誓い合いました。
帰国して、私はすぐに、イタリアのスタッフ45名の為に「使い捨てカイロ3,000個」を送りました。お礼の寄せ書きの手紙で「ミノルは俺達のかけがえのない仲間だから、是非一緒に人形劇を日本の為に作ろう」と言われ感謝されました。
ポールの主宰する人形劇制作会社パラレル社は、後にフランス大統領になる当時のシラクパリ市長の応援の基に、毎年11月、12月のクリスマスシーズンにパリ市役所前の広場で、1,500人収容の大型仮設テントでキリスト生誕をテーマにした人形劇を公演し、パリのクリスマスシーズンの風物詩となっていました。
毎年パリで新作を公演し、旧作はョーロッパの各都市で公演していましたので、日本人でもご覧になった方がいらっしやるかもしれません。

ポール達と仕事をする機会は、案外早く訪れました。1994年4月に、私は、山梨県上九一色村に建設が計画された「富士ガリバー王国」の総合プロデューサーを受任致しました。
計画の中に、ガリバーシアターを提案致しまして、ガリバー旅行記の中の小人の国の冒険物語「リリパット王国」を、ポール達の人形劇で行う事が決まりました。
1997年7月、富士ガリバー王国はオープン致しました。途中で、東京ディズニーランドの関係者が見学に訪れ、人形劇の芸術性の高さとエンターティメント性の高さを称賛しました。この、ガリバー・リリパット王国の冒険は、出来が素晴らしく、当事のシラク大統領の鶴の一声で「日本におけるフランス年の公式プログラム」に認定されました。
富士ガリバー王国のオープンを前に、私とポールとオディールは次の企画の話し合いを続けました。そこで私が提案したのが、「パリヴォーグ誌の表紙のファッション画」を人形にする事でした。
ガリバー王国の実質上のオーナーである大森新潟中央銀行頭取にも美術館建設を了承頂きました。
そして、翌年、1998年1月に人形制作をオディールが主宰するアトリエ・オディセーヌに発注しました。
その後、ガリバー王国の実質的親会社であった新潟中央銀行が破たんしまして、私は独力で人形制作費用を負担する事になりました。
これが、「幻のパリモード人形》」制作に至ったあらましです。
制作に長期間を要したのは、理由があります。絵の通りを再現するわけですから、当然そのような生地がありませんので、人形の為に、染め、織をしました。
また、顔と手と足は陶器です。焼いてメーキャップしました。
まさに気の遠くなるような作業でした。スタッフの評価が分かれ、造っては壊し、壊しては造る作業を繰り返したのは、ガリバーの人形劇制作と同じでした。
そういった、苦労と執念で作り上げた、まさにパリモードの歴史を語る「世界に唯一」のコレクションを相応しい場所で公開して頂く希望を強く念じております。

希望売却価格 1億1000万円

平成21年12月10日
株式会社エムアンドエム創研
代表取締役プロデューサー賀龍六責

パリモード来歴書

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